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三浦半島、雨崎の九七式中戦車。

先日、以前アップしていた”三浦半島の戦跡廃墟”に、5年前のmixiの戦跡コミュにUPしていた写真へのコメントを頂き、久しぶりに思い出した雨崎の九七式中戦車。

横浜に住んでいた10年前からの数年間、オートバイでしっかり走りこみたい時は朝から箱根へ、軽く流したい時には三浦半島へと、足しげく通っていた。
三浦半島の海岸は、東京湾に面する浜辺でも自然の海岸が沢山残り、 水も澄んでいて、ひと気もない浜辺や岩場が多く、気軽に日常を離れるにはうってつけの場所だった。
寒い時期でも、焚き火台やキャンプ用の小型バーナーをパニアケースへ放り込み、日がな一日、のんびりしていた。


そんなある日、三浦の大根畑をうねりながら続いていく農道を抜け、草むらを掻き分け海岸へ出て、浜辺を歩いていると、砂の中から錆色に包まれた鉄塊が顔を出していた。
リベット止めされた鉄の板と、鉄の筒。劣化したゴムが巻かれた大小の車輪。
反対側にまわって、首をかしげてみると、明らかに戦車。
三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_1232127.jpg

ブラっと走りに行ったので、カメラは一切持ってなく、多分、2000年に発売された、初のカメラ付き携帯、J-phoneのSH04で撮影。

鉄板の厚さはせいぜい20〜30mmだが、シャーマンにいとも簡単に撃破されていった旧軍の戦車ならこんな物だ。
砲塔の形状や装甲厚等から調べてみると、おそらく九七式中戦車。
何故こんなところに?と、首をかしげながらも、今でも防衛大のある三浦は、沢山の高射砲塔や海岸砲、掩体壕や各種トーチカに人間魚雷の基地等、今でも戦跡が多く残る土地だけに、不思議なことでもないか…と納得した。

その後も、何故か心落ち着く場所として何度も訪れる事になる。
これらの写真は、まだ銀塩カメラをメインで使っていた頃のもの。

三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_1311391.jpg

台風の後などに訪れると、以前より埋まっていたり、砂がえぐられていたりして、前は見えなかった部分が見えたりすると、しげしげと眺めていた。

三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_134283.jpg

当時はtwitterはもちろん、blog等も殆ど無く、個人でHPを立ち上げている人がいるぐらいで、ネットで検索してみても、この戦車の情報は皆無に等しかった。

三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_144087.jpg

その後、デジイチを使い始めた2005〜6頃。

三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_1404836.jpg

しばらくここを訪れていない間に、急激な変化が起きていた。

三浦半島、雨崎の九七式中戦車。_c0180505_145284.jpg

雨先の戦車の存在は、以前から知っている人はいたものの、WEB上でも、詳細な場所は伏せるなど、大切な場所として守られていた(ような気がする)。
ところが、ココに戦車があることを知った野暮な誰かが、新聞へネタを提供し、報道に加え、blogや掲示板で騒がれたことで、広く知られることになり、多くの人が訪れるようになっていた。
お陰で、気軽に近寄ることのできない場所になってしまい、挙句の果てには、掘り出された戦車は、珍スポットとして名高い「那須戦争博物館」に引き取られることに…。

波の音しかしない、人気のない静かな海岸で、60数年前に繋がるようにぽっかりと 口を開け、ペラペラの装甲をさらけ出していた九七式中戦車。
平和で穏やかな空間を突き破るようなその異物感が良かったのに、なんとも無粋なことをしてくれたものだと、当時の腹立たしさを、写真を見ていたら思い出しました。
残っていてくれれば、しっかりブラケットで撮影して、HDRにしたのになあ…と考えたら、残念でなりません。

by hiro_sj30 | 2011-03-05 02:22 | 廃墟・廃線・戦跡・近代化遺産  

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